Masuk翌朝、リゼットが目を覚ますと、窓の外には薄い霜が降りていた。
秋の朝とは思えない白さに驚き、しばらく窓辺へ立って眺めていると、昨日マーサが話していた冬薔薇のことを思い出した。
今日、庭へ見に行く約束をしていた。
そのことを覚えていると確認できた瞬間、胸の奥へ小さな安堵が広がる。
最近は何かを思い出すたびに、覚えていることそのものへ安心するようになってしまった。
以前は記憶など、あって当然のものだった。
朝起きれば昨日のことを覚えていて、好きなものを聞かれれば答えられる。
そんな当たり前を、リゼットはもう当たり前だと思えない。
顔を洗い、髪を整えてから食堂へ向かうと、すでにヴァルドが朝食を取っていた。
黒パンを片手に報告書を読んでいる。
「おはようございます、公爵様」
「ああ、おはよう」
第25話 初めて抱きしめられる祖母の手紙を見つけた翌日、リゼットは朝から妙に落ち着かなかった。悲しいのかと聞かれれば、悲しい。嬉しいのかと聞かれれば、それも間違いではない。祖母が自分を大切に思っていたことを知れた。忘れてしまった顔や声について、ミレイユから新しく聞くこともできた。それなのに、胸の奥には昨日から重いものが沈んでいる。理由は分かっていた。祖母の手紙の中にあった一文だ。『娘にも全てを話せませんでした』娘。つまり、母マルグリット。母は何も知らなかったのか。それとも、何かだけは知っていたのか。どこまで。祖母は何を言えず。母は何を聞けず。そして自分へは、何も伝わらなかったのか。考え始めると、止まらなくなった。「リゼット様」声をかけられ、ようやく顔を上げる。資料室の向かいに座っていたノエルが、困ったような顔をしている。「同じ頁を、もう十分くらい見ています」「そんなに?」「少なくとも俺が三回インクを足すくらいは」「その基準は分かりません」「俺も今作りました」少し笑う。けれど、自分でも集中できていないのは分かっていた。今日調べているのは、祖母エレナが残した他の文書と、アーヴェル家へ送られた可能性のある書簡の記録だった。肝心の手紙そのものは見つかっていない。ただ。三十年前。エレナから娘マルグリットへ、私信が二度送られている記録が残っていた。内容は不明。そ
第24話 祖母も知っていた翌朝、古文書庫の中央には、一枚の巨大な紙が広げられていた。普通の系図ではない。いくつもの家名が線でつながり、婚姻によって姓を変えた女性たちの名前が、三百年以上にわたって書き加えられている。王都の侯爵家。地方の伯爵家。すでに断絶した子爵家。神殿へ入った女性。平民へ降嫁した者までいる。一見すれば、何の共通点もない。しかし。赤い印をつけられた名前だけを追えば。一本の線になる。「……これが全部」リゼットは系図から目を離せなかった。「祈紡ぎなのですか」白髪の老術師が頷く。「記録で確認できた者については」昨日見つけた三十七人。そのうち、家系を遡れた三十一人が。婚姻を重ねながら。ほぼ同じ血統へつながっていた。「そんなことが」ノエルも驚きを隠せない。「名字が全部違うから、今まで誰も気づかなかったんですか?」「それも一因でしょう」老術師が答える。「祈紡ぎの力そのものが、母から娘へ必ず受け継がれるわけではありませんからな」「では、飛ぶのですか」リゼットが尋ねる。「一代、二代と現れないこともあったようです。それでも、かなり高い割合で同じ母系に戻っております」ヴァルドは腕を組み、系図の端から端まで見ていた。「偶然で説明できるか」老術師は首を横に振る。「難しいでしょう」「婚姻を操作した可能性は」
第23話 消された祈紡ぎたち翌朝、リゼットが古文書庫へ降りると、昨日までとは明らかに様子が違っていた。中央の大机だけでは足りず、壁際に二つ追加の机が並べられ、その上には年代別に分けられた記録簿が山のように積まれている。ノエルとガレスだけではない。砦の文官がさらに四人。北方公爵家付きの術師が三人。そして、昨日から調査を指揮している白髪の老術師まで、すでに仕事を始めていた。「……本当に全部出したのですね」リゼットが呟くと、後ろからヴァルドの声がした。「全部出せと言ったからな」「少しは加減するのかと思っていました」「何のために」振り返る。ヴァルドも朝から普段より険しい顔をしていた。「祈紡ぎがどう扱われてきたか調べるんだろう」「はい」「なら都合のいい年代だけ拾っても意味がない」その通りだった。けれど。机の上の量を見ると、気が遠くなる。ノエルが遠くから手を挙げた。「リゼット様、今なら逃げても誰も責めませんよ」「逃げません」「ですよね」「ノエルは逃げたいのか」ヴァルドが言う。「いえ、全く」「今、かなり逃げたい顔をしていたぞ」「閣下ほど人の顔を読む能力はありませんので、自分の顔までは分かりません」「口は回るな」「仕事もしております」机の上にはすでに十数枚の要約が並んでいる。どうやら本当に働いているらしい。リゼットも外套を脱ぎ、自分の席へついた。
第22話 妹の呪いに王家の紋章がある北方公爵家の古文書庫は、砦の地下にあった。正確には、砦が建てられるよりさらに前から存在していた石造りの保管庫を、後の時代に砦の一部へ組み込んだものらしい。朝。ヴァルドに案内されて地下へ降りたリゼットは、重い鉄扉の前で思わず足を止めた。「ここですか?」「ああ」「随分、大げさですね」鉄扉には三つの鍵穴がある。しかも、その周囲には古い魔術式まで刻まれていた。ヴァルドは腰の鍵束から一つを取り出し、同行していた法務官がもう一つ、白髪の老術師が最後の一つを差し込む。「公爵様一人では開けられないのですか?」「開けられないようにしてある」「なぜです?」「当主が勝手に記録を消したり、書き換えたりしないためだ」その答えに、リゼットは少し驚いた。「公爵家自身を信用していない仕組みなのですね」「人間だからな」いつものように簡単に言う。三人が同時に鍵を回すと、低い音が響いた。老術師が魔力を流し、扉に刻まれた線が薄く光る。やがて。重い鉄扉がゆっくり開いた。中から冷たい空気が流れてくる。地下特有の湿った匂い。古い紙。革。木。そして。ほんの少しだけ。呪滓に似た匂い。リゼットは眉を寄せた。「何かあります」ヴァルドがすぐに反応する。「呪いか?」「いえ」リゼットは入口で立ち止まり、感覚を確かめる。
第21話 ごめんなさいだけでは戻れないミレイユの身体から王家の古い術式紋が見つかった。その事実は、リゼットの頭から離れなかった。医師と術師は詳しい調査が必要だと言い、ヴァルドはすぐに古文書の確認と王都から届いた記録の照合を命じた。けれど、その日のうちに何かが分かるわけではない。ミレイユは高熱のため薬を飲み、しばらく眠ることになった。リゼットは医務室の隣に用意された小部屋で、椅子へ座ったまま待っていた。待つしかない。それが一番苦手だった。以前なら、自分に何かできないかと医師へ食い下がっていただろう。祈紡ぎを使えば熱だけでも楽にできるのではないか。呪滓を少しだけ抜けば。そんな考えが、今も浮かばないわけではない。でも。今日は言わなかった。医師が必要ないと言ったからだ。普通の解熱薬が効いている。呼吸も安定している。今、自分が力を使う意味はない。それでも、手を膝の上で握りしめていなければ落ち着かなかった。「また何かしたそうな顔をしているな」横から声がした。ヴァルドだった。いつから見ていたのだろう。「何もしていません」「知っている」「ならいいではありませんか」「していないが、したそうだと言った」リゼットは少しだけ眉を寄せる。「顔に出ていますか?」「かなり」「最近、公爵様に顔を読まれすぎている気がします」「分かりやすくなったんじゃないか」「前は?」「全部隠していた」
第20話 王女のように育った妹が北へ来た知らせが入ったのは、昼前だった。リゼットは資料室で北方の古い呪術記録を読み、ヴァルドは向かいの机で領内の報告書へ目を通していた。ここ数日はその形がすっかり当たり前になりつつあり、時折言葉を交わしては、またそれぞれの書類へ戻るという静かな時間が続いていた。扉が強く叩かれた。「閣下!」ノエルの声だった。ヴァルドが顔を上げる。「入れ」扉が開く。ノエルはいつになく息を切らしていた。「南の監視所から早馬です。王都方面から来た馬車が一台、領境を越えました」ヴァルドの眉が寄る。「誰の馬車だ」「アーヴェル伯爵家です」リゼットの手が止まった。胸の奥で、嫌な音がした。「お父様?」思わず立ち上がる。ノエルは首を横に振った。「いえ」そこで。なぜか言いづらそうにリゼットを見る。「乗っているのは……ミレイユ・アーヴェル令嬢だそうです」一瞬。意味が分からなかった。「……誰が?」「ミレイユ様です」聞き間違いではない。リゼットは椅子へ手をついた。「どうして」昨日。手紙を送ったばかりだ。いや、到着にはまだ時間がかかる。ミレイユがこちらへ向かっているのなら、リゼットの手紙を読んでから出発したはずがない。つまり。妹は。リゼットから北へ来ないかと尋ね